北見地区宣教活動

          ━宣教50年のあゆみ━

 

一、北見地区設立まで

 
1933
年(昭和8)に、北見教会が建堂され正式な宣教司牧活動がオホーツクの地で始められた。この時はフランシスコ会フルダ管区(ドイツ)が担当していた。当時の日本はファシズムが台頭し、41〜45年には太平洋戦争が起こった。そのため、教会の弾圧や日本天主公教への教会名変更、司祭の徴兵など教会活動が非常に困難を極めた。戦後、教会活動が再開され、1952年(昭和27)に、藤幼稚園が開設されてシスター達が来北し、カトリックに対する理解が少しずつ広がっていった。さらに、中国での宣教活動から北見に着任したフランシスコ会オランダ管区の三人の宣教師により、活動が本格化してきた。

 

二、教会の発展と充実


 
1955(昭和30)、オランダ管区と札幌教区司教との間で25年間の司牧契約がなされ、「北見地区」としての宣教司牧活動がスタートした。55年には、紋別教会と幼稚園、56年に北見藤中・高校、網走教会と幼稚園、留辺蘂教会ができ、58年に屯田町修道院、北見教会新聖堂、美幌教会と幼稚園が、60年には遠軽教会と幼稚園が落成して、地区の体制が完成した。また、カテキスタが採用されたり、5人の若い司祭が派遣されてきた。この教会や幼稚園の設立に要した多額の建設資金は、すべてオランダ管区や司祭の援助や努力によるもので、どれだけ感謝しても足りない。教会や幼稚園の新設や司祭の増加などにより信者数が60年には300人をこえた。地区設立以来、各教会では信徒会組織がつくられ、活動や行事が活発になってきた。61年からは、管内の信徒が一同に集まり聖体行列が行われ65年まで続いた。また、この年から家庭集会が始められた。62年に留辺蘂教会と幼稚園新築。この年、教会が大きく変革することとなった、第二バチカン公会議が始まった。63年、北見聖母幼稚園設立。この年、冷害で被害を受けた信徒や地区への愛の献金運動がおこり、64年から地区統一運動として展開された。

 

三、地区統一的活動の展開

 
第二バチカン公会議後、聖体行列にかわって第一回北見地区信徒大会(現カトリック大会)が開催され、「公会議を考える」と題して地区司祭による講話が行われた。公会議に対するオランダ管区の司祭団の対応が早く、信徒への意識や考え方の変革への養成がすすんでいた。67年に地区の典礼委員会と福祉委員会ができ、地区統一的な活動の展開が模索された。68年には北見学生センターが落成し、工大生寮生に加え若者達の交流の場として大きな役割を果した。また、家庭集会運営要項が地区全体で採用された。69年に北見地区使徒職委員会が結成された。これは、地区全体の宣教司牧体制と方針、公会議での精神を生かすことを目的とし、地区方針・委員会構成・分野別活動の育成・担当司祭制などが検討され、規約がつくられた。70年にカトリック幼稚園卒園児を対象にしたYLSが開始され、児童宣教活動として現在まで大きな成果をあげている。また、この年に管内初の特別養護老人ホーム光の苑の建設が始められた。地区の信徒が一丸となり後援会活動・資金造成・ボランティア活動・街頭募金・労働奉仕などに参加して、運営に協力した。71年、司祭と高校生との共同下宿「シャローム」が開設された。使徒職委員会で地区財政一本化が検討され、翌72年から実施された。しかし、各教会の予算・決算は独自のままで、教会の予算決算書が明確化されるのはまだあとになってからであった。

 

四、基礎共同体の充実

 
1974年、帰国による司祭減少もあり、地区の宣教司牧計画が見直された。修道院が北見教会に併設する形で新築移転された。また、美幌・留辺蘂教会は巡回教会となり、北見から司祭が通う体制となった。76年にはカトリック幼稚園の法人化が図られ、北見カトリック学園として発足した。この年、地区機関紙として「北のあゆみ」が発行され、地区委員会の決定事項や地区の教会動向などを知らせる役割を果すことになった。また、高校生グループが結成されて独自の活動が展開されることになった。77年、司祭減少の中で、司祭不在の典礼について地区でも検討され始めた。78年には釧路地区との役員交流会が実施された。お互いの地区の現状や問題点などが話し合われた。79年に光の苑の施設長が司祭から信徒に代った。司祭職本来の役務を充実させるためや司祭減少の中からも、また信徒の使徒職のためにもよいことで、これが現在の信徒などの幼稚園園長につながっている。

 

五、使徒職の養成

 
1980年、オランダ管区による25年間の司牧契約が終了し、日本管区に引き渡された。併せて地区25周年を迎え、カトリック大会を兼ねて記念式典が開催された。81年からは、日本人司祭二人が32年ぶりに着任し司牧にあたった。日本人司祭の地区長による新しい信徒養成が始まり、聖書100週間・信徒の典礼奉仕者養成・信徒使徒職養成・NHKアナウンサーを講師とした朗読研修会・地区大会での典礼ミニ講座や司祭不在の典礼などが実施された。地区内の多くの信徒が、宿泊研修で信徒の役割や働き、福音宣教のあり方などを学び親交を深めたことは、地区一本化に大いに役立つものとなった。この年、北見教会にテレサの会が発足しフィリピンのバギオ地区への援助活動が始まった。これによって、地区でのフィリピンに関連した活動が多様化してきた。
82年に地区センターが開設され、専任の事務局員が配置された。また、学修センターの管理者にカテキスタが任命されている。84年、司教団から「日本の教会の基本方針と優先課題」が出され、ナイス1(福音宣教推進全国会議)に向け動き出した年で、地区でも司祭の移動があり活動の見直しが始まった。YLSについての専門委員会がつくられたり、地区の新しい司牧のあり方をさぐるため、アンケートが実施された。85年にかけて、
・福音的関わりを拡げる共同体になるために
・行動する共同体になるために
・宣教する共同体になるために
・証しできる共同体になるために
・互いに支え合う共同体になるために
との項目で行われ、86年に、新しい宣教司牧方針が決められた。それは、「社会の中で働いているキリストとの共働」「社会の福音化」「教会共同体の成長をはかる」「人への奉仕」である。87年には、地区使徒職委員会の見直しが始められた。88、89年は、ナイスT後の対応に向けて生活の見直し、連帯と対話、ともに喜びをもって生きられる社会を目指しての活動が実践された。90年、学修センターが北見YMCAに売却され、YLSや教会関係活動は、北見教会や藤幼稚園に移された。92年に、次年度からの教区への移行のため、フランシスコ会司祭団の中に教区司祭が派遣されてきた。また、紋別藤幼稚園で働いていたシスターが引き揚げたので、信徒の園長が担当となり、教会の管理維持の問題がでてきた。

 

六、みんなで支え合い、みんなが伝え合う教区を目指して

 
1993年に、フランシスコ会司祭から教区司祭に宣教司牧担当が移行された。それによって、地区長も教区司祭となった。この時に、フランシスコ会から地区へ多額の寄付金があり、地区財政一本化に役立てられた。この年の9月に、網走教会が新築されて大きな喜びであったが、11月に北見教会が未明の火災により焼失し、深い悲しみに沈んだ。しかし、幸いに地区財政一本化のお陰と、保険金や見舞金、信徒の献金などにより、司教様との話し合いですぐに再建計画委員会が発足し、翌94年10月に新聖堂やホール・会館部分が完成し献堂式を行った。この再建にあたっては、教会関係者だけでなくこの地域の多くの人々にたいへんご協力いただいたことを忘れてはいけない。活動面では、ナイスUの取り組みが続いており、生活と信仰の見直しや戦後50年を迎えて教会はどうあるべきかを考えたり、キリスト者としての生き方を話し合った。96年に教区宣教司牧評議会が発足し、司教様の諮問に答えて教区ビジョン「みんなで支え合い、みんなが伝え合う教区」が答申された。地区においても、97年のカトリック大会に地主司教様を招いて講話していただき、本間氏からの北見地区のこれまでの歩みの報告を受けて、教区ビジョンについての理解と実現に向けて検討された。98年には「ひとりひとりが大切にされる共同体」を副題として、分科会形式で分かち合いが行われた。99年から2004年にかけては「キリストは今、私たちに何を望まれるか」というテーマで、国内外で小さい、弱い人々と共に歩まれている司祭の方々の講話を聞いた。また、老人福祉問題をテーマとした時には、当事者である地区の信徒の方々の報告を受けて分かち合いをした。カトリック大会は、例年北見教会を会場としていたが、98年には紋別教会と紋別藤幼稚園で、2000年には網走教会と網走藤幼稚園で開催している。

 

 近年の北見地区の現状は、司祭、信徒、修道者の高齢化や人数の減少が見られ、特に北見教会以外でその傾向がつよい。しかし、少人数ながらも互いに支え合って宣教司牧活動に取り組んでいる。信徒数の減少は、地区の財政にも影響を与えており、地区分担金の見直しも検討しなければならないが、財政一本化されていなければ事態はもっと深刻になっていたと考えられる。2005年に川上神父が12年ぶりに再着任し、地区長が教区司祭から再びフランシスコ会司祭になった。これからは、司祭数も三名が維持されることは難しくむしろ減る可能性の方が高い。そのような中で、構成メンバーの入れ替わりもあるため、あらためて信徒の養成が重要である。今まで以上に五つの教会が一つになり、百年、二百年と、このオホーツク圏の人々に福音をのべ伝え続けて行くことと思う。
                              
(1997年カトリック大会本間清勝氏作成資料に加筆 文責・横山)

             
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